紅葉前線、市内に達す2008年11月18日

熊本県庁前庭の銀杏並木
 西高東低の冬型気圧配置に変わって寒気団が南下、当地も今朝から気温がぐっと下がった。阿蘇高岳では昨年より16日早い初冠雪を記録し、熊本市の最低気温は3℃、最高気温は11.8℃で、昨日に比べて7℃以上も下がったようだ。北西風が冷たく、サイクリングに出ている間中、冬用の手袋が脱げなかったし、20㎞以上走ったが、まったく汗をかかなかった。こんなことはこの秋初めてであるが、明日からは冷え込みが更に厳しくなると予想されている。
 この寒気で、市内の木々はすっかり色付いた。今日出かけたら、県庁前庭の銀杏並木がすっかり黄色く変わり、風が吹かないのにはらはらと枯れ葉が散っていた。地面を黄色に覆った落ち葉の上では、幼い子達が嬉々として戯れていた。江津湖畔の木々も、すっかり紅葉していた。

深耶馬溪・・晩秋2008年11月22日

深耶馬溪の紅葉
 20数年ぶりに耶馬溪を訪れた。前回は青葉の頃だったようだから、紅葉は今回が初めてだ。前日までの不順な天候が奇跡的?に回復して、今日は朝から青空が広がり、北風も吹かず、小春日和となった。先日の五家の荘に続いて、今回も日帰りバス旅行である。バスの乗客は僅か17名と少なかったが、現地に着いたら、3連休の初日だからだろうが、大変な人出で周辺道路や駐車場は大混雑。今回もバスを選んで正解だった。
 耶馬日田英彦山国定公園で耶馬溪の名を冠する場所が10あるそうだが、今回バスで回ったところは、耶馬溪見物の定番コース、青の洞門・羅漢寺(本耶馬溪)そして深耶馬溪の3カ所であった。前2箇所は黄変した銀杏が多く、深耶馬溪は楓の紅葉が多かったし、丁度見頃であったが、深耶馬溪一番の見所とされる「一目八景」に着いたときは、既に陽はやや西に傾き、為に、西方の峰の斜面や崖がすっかり陰に入ってしまい、しかも峰の稜線のすぐ上からは強烈な日射しが展望台上の我々の目を直射するために、折角の紅葉がしっかりと見られなかった。今暫く時間が経てば太陽が山陰に隠れるから、日陰の中ながら紅葉が存分に楽しめたであろうが、日帰りという制約のためにそれもならず、誠に残念であった。それでも、朝8時に出発し、往復とも殆ど高速道路を走ったが、帰着は午後7時近くとなった。
 展望台を降りて日陰に入ったところで眺めた深耶馬溪谷の紅葉の写真を掲げる。

秋月城跡の黒門2008年11月26日

秋月城跡の黒門
 今秋の「紅葉の追っかけ」の最後として、今日、福岡県朝倉市にある秋月城趾へ行った。秋月は「筑前の小京都」と呼ばれ、周囲を山に囲まれた盆地にあり、戦国時代から城下町として栄えたところ。山間の静かな盆地のしっとりとした佇まい、そしてハゼや紅葉の紅と銀杏の黄色、そして常緑樹の緑がしっくりと溶け合い、いわば「静謐の美」のようなものを醸し出していた。
 秋月城は秋月藩の藩庁がおかれていたところで、秋月藩(あきづきはん)は福岡藩の支藩。元和9年(1623年)黒田長政の3男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。だが、秋月の名はこのことよりむしろ「秋月の乱」で知れれているように思う。
 「秋月の乱」は明治9年(1876年)10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、その3日後の10月27日、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた明治政府に対する士族反乱である。12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下された。この乱により、秋月城が破壊されてしまった。
 ここに掲げる写真は、その秋月城跡の黒門であるが、これは鎌倉時代に古処山城の城門として造られ、江戸時代初めに秋月城の大手門として移された。そして明治時代からはお宮の神門に使われるなど700年の歴史をもち、福岡県の文化財に指定されている。

本吉山清水寺の山門2008年11月30日

 26日午後、秋月城跡からの帰りに、少し回り道にはなるが方向としては途中の、みやま市瀬高町の東方山麓にある名刹、本吉山清水寺に寄った。かの伝教大師最澄が、大同元年(806年)唐から帰国の途中立ち寄って開いたという寺院で、雪舟が作ったと伝えられる庭園もある。
 一昨年訪れた時に比べると朱色の発色が今一つと思われたが、山門周辺はそれなりに趣があった。