秋月城跡の黒門 ― 2008年11月26日
今秋の「紅葉の追っかけ」の最後として、今日、福岡県朝倉市にある秋月城趾へ行った。秋月は「筑前の小京都」と呼ばれ、周囲を山に囲まれた盆地にあり、戦国時代から城下町として栄えたところ。山間の静かな盆地のしっとりとした佇まい、そしてハゼや紅葉の紅と銀杏の黄色、そして常緑樹の緑がしっくりと溶け合い、いわば「静謐の美」のようなものを醸し出していた。
秋月城は秋月藩の藩庁がおかれていたところで、秋月藩(あきづきはん)は福岡藩の支藩。元和9年(1623年)黒田長政の3男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。だが、秋月の名はこのことよりむしろ「秋月の乱」で知れれているように思う。
「秋月の乱」は明治9年(1876年)10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、その3日後の10月27日、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた明治政府に対する士族反乱である。12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下された。この乱により、秋月城が破壊されてしまった。
ここに掲げる写真は、その秋月城跡の黒門であるが、これは鎌倉時代に古処山城の城門として造られ、江戸時代初めに秋月城の大手門として移された。そして明治時代からはお宮の神門に使われるなど700年の歴史をもち、福岡県の文化財に指定されている。
秋月城は秋月藩の藩庁がおかれていたところで、秋月藩(あきづきはん)は福岡藩の支藩。元和9年(1623年)黒田長政の3男・長興が福岡藩より5万石を分知され立藩した。だが、秋月の名はこのことよりむしろ「秋月の乱」で知れれているように思う。
「秋月の乱」は明治9年(1876年)10月24日に熊本県で起こった神風連の乱に呼応して、その3日後の10月27日、旧秋月藩の士族宮崎車之助、磯淳、戸原安浦、磯平八、戸波半九郎、宮崎哲之助、土岐清、益田静方、今村百八郎ら約400名によって起こされた明治政府に対する士族反乱である。12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下された。この乱により、秋月城が破壊されてしまった。
ここに掲げる写真は、その秋月城跡の黒門であるが、これは鎌倉時代に古処山城の城門として造られ、江戸時代初めに秋月城の大手門として移された。そして明治時代からはお宮の神門に使われるなど700年の歴史をもち、福岡県の文化財に指定されている。
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